「お休みします」と書いたら、誰も見ないだろう。
「誰も見ない」という前提での投稿。
社交ダンスって、発想を変えると、面白い。
だけど、それは「敵を作る」ことになるし、
「排除されて、孤立する」危険性が高くなる。
良くも悪くも、それが田舎。
例えば、わたしの以下の「考え方」に対して、
支持(賛同)する石川県のダンス愛好者は、
「限りなくゼロに近い」と思う。
------------------------
社交ダンスの基礎は、さいしょに
「膝(ひざ)が上がらないカラダ」
を作ってから、
「膝を持ち上げようとする」
どうなるか?
「足が動いて、(中間体重キープで)カラダが動く」
この身体動作が、理想だとするならば、
膝が上がって、足の裏が浮き上がったら、
「膝が上げるな!」という指導が来るし
膝を持ち上げずに、違う方法でカラダを動かしていたら、
「膝を上げて進め!」という指導が来る
同じ動きなはずなのに、「正反対の指導」が、
飛んでくる来ることがある...ってこと。
上方向の力と、下方向の力。
逆方法のベクトルの力を釣り合わせて
「両方の力を最大化」させるのが基礎だとすれば、
「膝を上げろ」と「膝を上げるな」は、どちらも
「まったく同じ、理想の身体動作」へ指導となる。
---------------------
こういう発想を持つか? 否定するか?
案外、こういうのは、社交ダンスを始める前の人とか、
始めたばかりの初心者の方が、興味を持つと思うんだけどね。
「社交ダンス」のカラダの動きに、
そういう発想が必要(あるいは、あったほうがいい)なのか?
それとも、不要(あってはいけない発想)なのか?
必要だと思う人は、「そういうカラダ作りをすればいい」し、
「どうやったら出来るんだろ?」という情報収集をすればいい。
不要だと思う人は、
「世界チャンピオンでも、そんなことやってないはずだ!」
という強い信念をもって、否定し続ければいい。
自分と違う発想の人を、徹底的に排除する。
「適当に取り繕う先生」を持ち上げて、ちやほやする。
角を立てずに、ただただすべてを、まるく納める。
そんな社交ダンスでは、未来はやってこない。
そう思います。
|