「社交ダンス」と「競技ダンス」
いったい、何が違うんだろうか?
プロ教師と呼ばれる人は、、
両者の違いを勝手に定義して、
生徒に教えてるんだろうけど、
たぶん、間違っている。
(そして、間違ってるという自覚を持たない)
例え、どんな踊り方であろうと、
自分のパートナー、もしくは
自分の教室以外の人と踊れば、
それは「社交ダンス」ということになる。
逆に、自分の所属する集団だけで完結して、
他の人と踊れない、
他の人と踊ることを否定するのであれば、
それは、「社交ダンス」とは言えない。
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考えてみると、わかりやすい。
小学校に入学前の子供は
幼稚園にも保育園にも行く義務はない。
他の子供と、接する義務も無い。
自分の家族以外とは、会話をさせない。
汚い言葉を使うテレビも禁止。
そんな育て方も、ありえる話し。
例えば、自分の家族以外とは
会話をしない人間がいたとする。
家族間で、礼儀正しく、
親に対する会話はすべて敬語。
言葉使いも、完璧だとする。
でも、家族以外の人とは話したことがない。
「完璧な子供」を育てることができたとしても
それを「社交」と呼べるだろうか?
いえるはずがない。
自分の家族・自分の家族という閉鎖空間の中で、
いくら礼儀正しい振る舞いをして、
完璧な敬語だけで会話ができたとしても、
自分の家族・自分の親族だけとしか、
会話することを許されないのであれば、
それは、「社交」とは言えない。
できるだけ、多くの人と接したとき
自分と違う考え方の人と接したとき、
はじめて、「社交」という概念が生まれる。
日本の「プロ教師」と呼ばれる人は、
「社交ダンス」を理解していない。
「社交」というのは、
決して美しいモノでは無く
決してクリーンなものでもない
汚いモノを否定したら、
それは「社交」とは言えない
社交ダンスも同じである。
汚いモノのある空間に自ら飛び込んで、
「こんなもんは、ダンスじゃねぇ!」と
叫んだり、陰口を叩いたりするところから、
「社交ダンス」というものがスタートする。
綺麗なモノと汚いモノが交わりながら
多くの人が接することで「社交」が生まれる。
...ってことかな。
ゴチャゴチャに混じり合ったモノの中から
「尊敬される人」を作り上げ、
正しいおどりをする人物を育て上げていくのが、
「社交」におけるプロ教師の役目であるはずなのに、
多くのプロ教師は、それに気づかない。
社交ダンスをダメにしたのは、
プロ教師・・・・だと言わざるを得ない。
「社交」という意味を、一番理解していないのが
「社交ダンスのプロ教師」なのである。
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