映画「Shall we ダンス?」を作った 周防正行監督。
次の作品は、「それでもボクはやってない」という作品。
2007年だから、今から13年間かな。
この作品、社交ダンスをやってる人、
特に、「社交ダンスを教えている人」には、
是非とも鑑て、なにかを感じて欲しいと思います。
主人公の男性が、会社面接へ向かう満員電車で痴漢に間違えられて、現行犯逮捕されてしまう。
裁判で無実の主張をするのだけど、どうなるか?
あ)被害者側(女性)に、立証責任があると考える
痴漢をやったことを立証できれば有罪で、
痴漢をやったという立証出来なければ無罪。
い)加害者側(男性)に、立証責任があると考える
痴漢をやってないことを立証できれば無罪で、
痴漢をやってないことを証明できなければ有罪
「スジが通っている」のは、どちらの考え方だと思いますか?
この映画を見てから、社交ダンスを教えたり、習ったりすると
社交ダンスに対する考え方が、大きく変わってくるように思います。
-----
社交ダンスには、「教師免許制度」というものがあります。
習う側の人にとっては、
「教師免許を持っている人の言ってることは、正しい」
と受け取る人が、ほとんどでしょう。
じゃぁ、
「教師免許を持っている人(教師免許を交付している組織の人)
が教えていることが、根本的に間違ってるんじゃないか?」
と思って、教える側の人間に、疑問を投げかけたとしましょう。
この場合の説明責任は、どうなると思いますか???
教師資格を持った指導者(資格試験を行なう組織)が、
「足で床をしっかり押し、自分の全体重を床の中に
のめり込ませるような気持ちが大切です。」
と主張し、わたし(山象)が、
「正確に土踏まずのアーチを作ることが出来れば、
足で床を押す意識など、まったく必要ない。」
と反論したとします。
この場合、
「床をしっかり押す必要がある」と主張する人が、
【必要がある】ことを証明すべきなのか?
それとも
「土踏まずのアーチを作れば、特に
床を押す意識は必要はない」と主張する人が
【必要がない】ことを証明すべきなのか?
どちらが、妥当だと思いますか?
実際のところ、【必要ある】【必要ない】のどちらに
【証明する義務】が発生するか?って話しです。
ここで、「それでもボクはやってない」の映画の
「弛緩をやっていないことの立証」を思い出してください.
「やっていない」ことの立証することは難しいんです!
「免許」を取得すると、「教える権利」を得る同時に、
教えていることの正当性を説明する義務も生じるはずです。
でも、社交ダンスの多くのプロ教師は、権利を主張するけど、
「正しいことを立証する義務」を放棄してるように思います。
---------
さらに...
「足で床を押す」と「床に圧力を掛ける」は同じでしょうか?
まったく意味が違うハズ。 両者を混同する解釈は危険です。
「床にのめり込む気持ちで、全体重で床を押した場合」と
「土踏まずのアーチを最大化して、床の上に足を置いた場合」
では、「物理的」な、床への圧力(床へのプレッシャー)は、
どちらが大きくなるか? これを、考えてみましょう!
体重が同じなら、設置面積が小さい方が、床への圧力は大きく
なります。(圧力=重力(体重)÷接地面積。中学校で習う)
なので、「床への圧力を最大化しろ!」と言われたら、
土踏まずのアーチを作りながら、足を床にそっと置けば良い。
カラダは、土踏まずの上に移動し、足の上に立った姿勢が出来ます。
逆に、「床を押せば」接地面積が増えて、床への圧力は減少します。
日本の社交ダンスのプロ教師(というより、教師資格)は、
絶対的である「物理の法則」を無視していることが多いです。
物理の法則を無視して「これが正しい!」と主張するのであれば
やっぱり、「正しい」と主張する教師側が、「正しいこと」を
立証する必要があるように思います。
いままで、「逆らうヤツは、追い出せば良い!」といって、
自分の考えを押し通していた社交ダンスのプロ教師。
従来の教え方に、矛盾が生じている部分は関しては、
はっきりと説明する義務があるように思います。
どうでしょうか?
|